鳥居本お宝発見隊

滋賀県彦根市の「鳥居本お宝発見隊」は、鳥居本宿のかつての賑わいをとりもどし、新たなまちの活力を見出すことを目的として結成されました。鳥居本の情報を発信していくブログです。

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2012-06-04-Mon-16-58

歌枕に残る「不知哉川」

 旧中山道を鳥居本から西に進み、大堀町にはいると芹川の手前にこんもりとお椀を伏せたような大堀山(別名鞍掛山)があります。この山が壬申の乱の戦場となった「鳥籠山」ではないかといわれています。
『万葉集』では
淡海路の鳥籠の山なる不知哉川

       日のこのごろは恋ひつつもあらむ

狗上の 鳥籠の山なる不知哉川

       いさとを聞こせ 我が名を告ぐらすな
と詠まれ、歌枕の地として知られています。
 鳥籠の山とセットで詠まれるので、不知哉川は芹川であるとする説が有力ですが、「鳥籠山」は正法寺山や東山であるという説や、不知哉川は、原町を流れる小川であるともいわれます。鳥籠山の比定地についての見解はさまざまですが、中山道は古代の東山道を踏襲して決められたという経緯から、古代の鳥籠駅の所在論争にも大きく影響します。
 『延喜式』では鳥籠駅に15匹の駅馬を備えたと記され、大堀山と芹川のある周辺が鳥籠駅であった可能性が高いとされます。しかしながら、具体的な調査が行われていないので確証はなく、大堀町から地蔵町、正法寺町、原町あたり一帯が鳥籠駅であろうという可能性が残ります。
 原町を流れる「不知哉川」の源のある東山は、古くから「山神さん」として信仰され、山頂付近の一角には石を四角に敷き詰められた上に小さな石塔がおかれ、3月と12月の祭礼には原の人々が参拝に訪れます。彦根インターチェンジ近くの原八幡神社の社内には、聖徳太子建立の伝承を持つ永光山宝瑞寺がありましたが、明治の神仏分離で廃寺となりました。その後、中興開山の墓石などわずかにその姿をとどめていましたが、近年の神社境内の整備に際して供養塔が建立されました。神社境内の整備が進むと同時に、平成9年には、氏子たちによって日本一の大太鼓が奉納されました。
2012-06-04-Mon-16-53

小町伝承が残る中世の宿場「小野宿」

 鎌倉時代に阿仏尼(藤原定家の子)が書いた『十六夜日記』や『太平記』『実暁記』では宿場としての小野の地名を見ることができます。中山道の原型は古代最大の幹線道路「東山道」であったと推測されており、小野は早い時代から宿場の機能を果たしていました。原から小野の集落に入る街道の傍にたたずむ小さな祠の中には小町地蔵とよばれる1体の地蔵さまが安置されています、この祠は小町塚と称され小野小町伝承を伝えています。京都から北陸・関東へ往復していた当時の公人たちが小野宿にたびたび宿泊していたことから生まれた伝承であろうと考えられます。小野小町に関する伝承地は全国に25ヶ所以上存在し、絶世の美女であったといわれるだけにその伝承も多いのです。
 小野町に伝わる話では、小野好実が奥州最上・出羽の郡司の任期を終えて京に帰る途中、小野に滞在し、ここの住人から1人の娘をもらい受け、京につれて帰り、養育して養女にしたのが、後の小町であったというものです。出羽守小野好実は、滋賀郡志賀町に祀られる小野 篁 の二男ですが、好実の娘が小町であるという真偽のほどは不確かであると考えられています。
 小野小町地蔵付近には、明治の中頃まで茶屋があったと伝わりますが、現在は、名神高速道路と新幹線そして旧中山道がもっとも接近する所です。文明の喧噪の中にひっそりたたずむ美女伝承は、旧道ならではの趣といえましょう。
 小野宿がいつ頃から宿場の機能を果たしていたのかは不明ですが、大堀あるいは原周辺の鳥籠駅と山東町の横川駅の間に位置した中世以来の駅(宿場)であったことは確かです。このような小野宿も、関ヶ原の戦い後には、攻撃を受けた佐和山城の影響で、集落ごと焼き払われてしまいました。小野で本陣を務めていた寺村家はその後旧鳥に移り、引き続き本陣を務めました。
2012-06-04-Mon-16-51

戦国時代と百々氏

「彦根道」との分岐点を示す道標の立つ百々の集落は、室町時代後期から戦国期にかけて、京極氏に仕えた百々氏が本拠としたところです。
 百々氏の祖である百々盛通は伊予の国(現在の愛媛県)出身の豪族で、河野三郎越智通春が嘉吉年間(1441~44)に当地に居住したことに始まるといわれます。盛通の母は、近江守護大名の京極氏一族の京極高経の娘でした。高経が京極氏から戦功として小野庄と百々村を賜り、これが縁で、盛道が百々村に居住するようになり、応仁の乱では、摺針峠に置かれた関所を守りました。
 戦国時代、古西法寺村や百々村は佐和山の城下町として発展し、浅井氏に属した百々隠岐守は佐和山城にいたことが知られています。元亀元年(1570)6月姉川の合戦で勝利した織田信長は、佐和山城が落城した翌年2月までの間、丹殿前にあったと思われる百々屋敷に丹羽長秀を配しています。その後、信長に仕えた百々越前守は摺針峠の監督を務め、さらに羽柴秀吉の臣として天正10年(1582)の山崎の合戦に従軍するなど、戦国時代以降、時の名将に仕えてきました。江戸時代末期には7軒の百々姓の人が鳥居本に居住していましたが、その一人百々彦右衛門元信は、長野義言(主膳)の弟子で、自ら「本照亭主人」と名乗っています。祖盛通から数えて12代目の子孫は慶応元年には横目という村の役職につくなど百々氏の系譜は引き継がれてきました。天台宗の百々山本照寺が盛通の菩提寺と伝わりますが、信長の鳥居本攻撃によって本照寺は廃絶しました。その後梅本坊という人が本照寺持仏堂の永続をはかり本尊を奥の別院に隠し、境内に八幡宮を建て、表向き八幡社としながら本照寺持仏堂として守ってきました。大正8年の調査で奥の院の阿弥陀如来が確認された後に、山田神社に合祀し、従来の神社を阿弥陀堂と改め、地元の人に守られています。
2012-06-04-Mon-16-50

佐和山城の歴史と変遷

佐和山城の築城
 石田三成の居城として知られる佐和山城ですが、その築城は鎌倉時代にさかのぼります。古くはサホ(佐保・棹)山と呼ばれ、鎌倉時代はじめに佐々木定綱の六男、六朗時綱が佐和山付近の山麓に館を構えたのが始まりとされます。15世紀中頃には六角氏の支配のもと小川左近太夫を城主として犬上郡、坂田郡の境目の城となりました。やがて佐々木氏は京極と六角に分かれ、京極の臣下の中から勢力を伸ばしてきた浅井氏を交えた3者の間での争いがはじまります。そして、勢力の境に位置する佐和山が攻撃の目標となり、次第に要害の地として城塞が築かれ、強固なものになってきたと考えられます。関ヶ原の合戦後に井伊直政が入城し、慶長8年(1603)彦根城築城と同時に廃城となりましたが、おおよそ400年の間、近江の北と南の境目に位置する重要な城塞でした。
 この城の重要性に着目したのが織田信長です。京極、六角、浅井の勢力争いに加わり、そして終止符を打った信長は、安土城の完成までの間、まるで自分の城のように佐和山城を利用していたことが『信長公記』などの記録に残ります。当時、佐和山山麓には入江内湖・松原内湖が広がり、東山道が走る立地は、天正7年(1579)に安土城が完成されるまでの間、信長の居城的性格を持つ重要な城郭とされていました。
元亀元年の佐和山合戦
 信長が美濃の斉藤氏を討ち、稲葉城を岐阜城に改め、足利義昭を擁して上洛の準備を始め、妹のお市を浅井長政の妻とした頃、浅井長政の臣下の磯野員昌が永禄11年(1568)に入城し、観音寺城を攻略しました。その後長政が反旗を翻し、姉川の合戦が起こります。9時間におよぶ激しい戦いの末、破れた長政は、小谷城と佐和山城に分かれ再起を図ります。一方信長は小谷城に秀吉を配し、佐和山城に対しては、東の百々屋敷に丹羽長秀を、北の山(磯山または物生山)に市橋長利、南の山(平田山または里根山)に水野信元を布陣させて長政を封じる方策を講じました。これが「元亀元年の佐和山合戦」です。佐和山に籠城した磯野員昌は、坂田郡内の土豪今井氏、嶋氏、河口氏らとともに家中の結束を固め約8ヶ月にわたって奮戦したのですが、長政への援軍が聞き入られず、食糧・武器もなくなり、なすすべを失った員昌はついに信長に降伏し佐和山城を明け渡しました。後に佐和山城が「難攻不落」の城といわれる所以です。
佐和山城の歴史
 佐和山合戦後の佐和山城は、丹羽長秀、堀秀政、堀尾吉晴と引き継がれていきます。
 近江を制定した信長は比叡山を焼き討ち、北に横山城、東に佐和山城、南に坂本城を配した近江の街道を見据えながら、湖上の交通も視野においていました。そして佐和山城主、長秀に命じて長さ30間の大船を作らせ琵琶湖の水路も確保しましたが、非業の最期を遂げました。
 その後秀吉が天下を平定すると、佐和山城には秀吉臣下の堀尾吉晴が入り、軍事拠点を守りながら、秀吉に従って各地を転戦しました。
 関白になった秀吉のもとで五奉行に名を連ねていた石田三成が佐和山の城主となったのは、文禄4年(1595)、堀尾吉晴が佐和山から浜松に移って以来、5年が経過し、城内は相当荒廃していたので、三成は直ちに城郭を大改修しています。残存する佐和山城の遺構は多くはありませんが、ほとんどが三成が大改修した当時のものです。城内は三成の合理性を示すような質素な造作でしたが、本丸を中心に、周囲に西の丸・二の丸・三の丸・太鼓丸・法華丸などの楼閣がそびえる城郭に整備しました。多賀大社に残る絵図には、佐和山城の当時の偉容を見ることができます。三成は城郭の整備とともに、領内の統治にも細やかな配慮を示したと伝わりますが、詳細な記録は多くはありません。
佐和山城の廃城
 関ヶ原の合戦で敗北した石田三成は山間に逃亡し、三成の父正継と兄正澄が留守を守る佐和山城は、小早川秀秋・井伊直政・田中吉政らの攻撃を受けます。執拗な攻撃に石田勢はよく戦ったのですが、一族は自刃し、塩硝蔵に火が放たれると城郭はすべて灰となりました。逃げまどった婦女の多くが東の崖から身を投じたことから、後にこの崖は「女郎ヶ谷」と呼ばれるようになりました。
 落城した城は家康の家臣によって管理されていましたが、慶長6年(1601)に井伊直政が城主として赴任、その後新しく彦根城の築城が始まると佐和山城の石や用材が建設のために運びだされましたので、佐和山城の多くの遺構は姿を消しました。ただ鳥居本側にあった大手門は彦根市内の夢京橋キャッスルロード中央に位置する宗安寺の表門に移築されたと伝わります。
2012-06-04-Mon-16-47

佐和山城の遺構

佐和山城の遺構
佐和山山頂から鳥居本町、遠くに伊吹山が見える

大手門跡から近江鉄道の線路をくぐり、小野川に沿ってさらに進んだ、山沿いの三の丸付近には、殿町谷など城下町を示す小字名が残り、内町老人会によって登山道の標識がたてられています。ここからまっすぐに登ると通称「龍潭寺越え」とよばれる交差点となり、さらに登り尾根の切り通しに出て、西の丸を経て坂を登りつめると本丸に出ます。本丸までは、通常佐和山トンネル彦根側からのハイキングコースをとりますが、鳥居本側からも容易に山頂に出ることができます。
 かつて五重塔がそびえていたといわれる頂上からは、遠くに安土山、小谷山が見渡せ、伊吹山も手にとるような距離に望むことができます。本丸跡から少し下ると腰郭跡に2段の石垣が残り、城郭跡が感じられる遺構に出会います。関ヶ原の合戦で壊滅的な破壊を受けたといわれる佐和山城ですが、石垣をはじめ千貫井の存在など随所に遺構を見ることができ、この城郭が当時、重要な役割を持っていたことがよくわかります。