鳥居本お宝発見隊

滋賀県彦根市の「鳥居本お宝発見隊」は、鳥居本宿のかつての賑わいをとりもどし、新たなまちの活力を見出すことを目的として結成されました。鳥居本の情報を発信していくブログです。

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摺針峠の由来

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百々の道標
「右 彦根道」「左 中山道 京いせ道」「文政十丁亥秋建立」と刻まれる道標。狭い道路角に立つことからたびたび、災難を受けてきたが平成14年には一部修復され、自動車などが当たらない工夫が施された。文政10年(1827)に建立され、朝鮮人街道との分岐点を示している。


 摺針峠は、中山道随一の名勝として知られ、ここからの眺望は「眼前好風景なり。山を巡て湖水あり。島あり。船あり。遠村あり。竹生島は乾の方に見ゆる。画にもかかまほしき景色なり」(『近江輿地志略』)と記されているように多くの絵画の題材になっています。摺針峠の名前の起こりは、「京都で学んでいた学生が学業半ばで帰路に就いている途中、この地を通り、一人の老婆が一生懸命に斧を研いでいる光景にであい、『斧を研いで針にする』という言葉を聞いて、自分の志が足りないことを恥じて再び京都に戻り学業に励んだ。この学生が後の弘法大師である」という話に由来すると伝わります。大津市出身の日本画家小倉遊亀氏はこのテーマを題材に大作を仕上げたことで有名ですが、峠には、このときに弘法大師が植えたという「弘法杉」が大きく枝を伸ばしていました。
 峠にはかつて多くの茶店がならび、「するはり餅」という名物に人気が集まったといわれます。望湖堂は、茶店とはいえ本陣を思わすような構えの建物で、明治天皇や皇女和の宮さまがご休憩され、大いに繁栄しましたが、鳥居本宿や番場宿からは寛政7年(1795)に本陣紛いの営業を慎むようにとの抗議がでています。朝鮮通信使の一行が、江戸への行き帰りに立ち寄ったことを記す文書や扁額など貴重な資料が多く残っていましたが、惜しくも平成3年の火災で建物とともに消失しました。現在の建物はその後建設されたものです。

摺針峠の由来
木曾街道六十九次(岩根豊秀孔版画)

摺針峠の由来
焼失前の望湖堂の全景。左に弘法杉が見える
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小野から旧鳥へ宿場の変更

 慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康は、江戸と京都を結ぶ重要な街道として東海道と中山道の宿駅の整備を始め、慶長7年(1602)中山道に、公用の継立場にあたる伝馬の制度を定めました。この年から400年を迎えた平成14年(2002)には、6つの宿場を持つ滋賀県をはじめ街道沿いの各地で400年記念のイベントが大々的に開催されました。
 江戸から63番目の鳥居本宿は、番場(現坂田郡米原町)と高宮の間に位置し、それぞれ約1里1町、1里半の距離があります。下矢倉村からは北国街道へ、南端の百々村からは朝鮮人街道(彦根道)が分岐し、まさに交通の要衝として発展してきました。
 鳥居本に宿場が置かれた時期については、いままでは小野の宿場が宿駅の機能を長年果たしていたと伝わっていましたが、このほど、彦根城博物館の調査によって、慶長8年(1603)に彦根に地割りをするために江戸からやってきた奉行嶋角左衛門が、小野宿で本陣を務める庄兵衛に、鳥居本に宿を移すように命じたという記述が確認されました。
 慶長7年(1602)7月幕府の命によって奈良屋・屋が中山道宿々の駄賃銭を定めた際には、小野村が伝馬継所とされていましたが、翌年には鳥居本に宿が移され、小野で代々本陣を務めていた寺村家が鳥居本宿の本陣を務めるようになったのです。(右上写真文書)
 鎌倉時代の『実暁記』では、守山・武佐・愛知川・番場・醒井・柏原の6宿が登場し、同じく鎌倉時代の『十六夜日記』には守山・野洲川・鏡・小野・醒井の地名が見られ、いずれも、中世の東山道の宿駅として存在し、中山道の宿駅制定後も宿場機能が続きましたが、高宮と鳥居本には、江戸時代になって新しく宿場が設置されました。
 一旦、小野に宿駅を命じた後に、幕府が鳥居本に宿を移すことを命じた背景には、彦根城下町の建設計画と密接なつながりがあったのです。直政の戦功で、佐和山城を拝領した井伊家では、佐和山城を改修することも視野に置きながらも、湖岸に近く、城下町を形成しやすい彦根山に築城することを決め、築城と同時に城下から中山道に出る脇街道のルートについてもこのとき決められたのです。
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中山道から彦根城下への道

 百々に立つ道標で分岐した彦根道(朝鮮人街道)は佐和山の切り通しと呼ばれる道を越えて彦根の城下にはいりました。現在では佐和山トンネルが貫通し、旧道は国道に遮断されていますが、山を越え古沢町に続いていました。大正時代に鳥居本から彦根の女学校に通学していた人の話では、常に履き物(当時のことでわら草履であったと思われる)を余分に携行していたと聞きます。また帰宅が遅くなったり、雪が降った時には、当家の下男が送り迎えをしたとのことです。トンネルが開通していちばん喜んだのは、鳥居本を顧客としていた彦根側の麓の商人であったという話も伝わります。
 それはともかく、この切り通しは戦国時代に佐和山城太鼓丸の防御施設であった切り通しを利用したとの説があり、その後井伊直孝の時代に整備され、元和年間(1615~24)に彦根城下町の整備と並行して鳥居本の施設が整う過程で道路が整備されたようです。
 中山道と城下を結ぶ脇街道は、鳥居本宿から切通峠を越え、外船道を通り、現在のキャッスルホテル近くの切通口御門に入り、一方高宮からは大堀町の分岐を示す道標から東沼波をとおり七曲がりを通過し高宮口御門(現在のあさひ銀行)に入ります。現在の中央町には、城下町の宿駅機能をもった伝馬町があり、脇街道は、国内の幹線道路と城下町を結ぶバイパスの機能を果たしていました。
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北国街道との分岐点

 天保年間の宿村大概帳によると鳥居本宿の長さは小野村境から下矢倉村まで13町(約1.4キロメートル)と記されています。戦後に米原内湖は干拓されましたが、旧北国街道は湖岸にそった道で、中山道は摺針峠を越えて番場宿にむかいました。米原町内には、北国街道と中山道の分岐点を示す道標がありますが、北国街道の起点は下矢倉村であり、当地杉本さん宅には北国街道の起点を示す道標があったことを裏付ける貴重な写真が残っています。現在新幹線が走る田園地帯は、かつては内湖でした。鳥居本は鈴鹿の山と内湖に挟まれた狭隘な地形であったのです。
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中山道の始まりと街道の整備

 中山道の原型とされる古代近江の東山道は、7世紀の中頃に駅制の整備にともない建設されたと考えられ、『延喜式』では、東から横川、鳥籠、清水、篠原、勢多に駅が置かれたことが確認されています。鎌倉幕府を開いた源頼朝は文治元年(1185)に駅制を制定し、京都鎌倉間を東海道としたことで、近江の東山道の利用も活発になりました。そして関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康は京都と江戸を結ぶ重要なルートとして東海道・中山道の整備に着手しました。当時中山道は「中仙道」としるされましたが、享保元年(1716)に新井白石の進言で「中山道」を正式表記としましたが、その後も「中仙道」は使用されています。
 慶長7年(1602)7月に幕府の命により奈良屋市右衛門と樽屋三四郎が、中山道の宿々に駄賃銭を定め、小野村を伝馬継所として通告しましたが、翌慶長8年に宿場は小野村から旧鳥に変更され、上矢倉村、西法寺村、百々村の3ヶ村が加わり鳥居本宿が構成され、本陣1軒、脇本陣2軒、問屋場1軒が定められ、問屋の前には高札場が設置されました。
 天保年間(1830~44)の宿場の概要を示す宿村大概帳によると、鳥居本宿の経済状況は、鳥居本村の115石余のほか、西法寺村1112石余、百々村 207石余、上矢倉村237石余であり、下矢倉村境より小野村境まで13町余の長さがありました。また、総人口は1448人、家数は293軒でそのうち、旅籠屋が大小合せて35軒。宿場の役人として、年寄5人、庄屋役5人、横目役4人、馬差2人、人足肝煎2人、人足指4人が配置されていました。通常は、問屋1人ならびに馬指・人足肝煎・人足指各1人の役人が出勤し業務に従事していました。
 宿駅制度を定めた幕府は、江戸日本橋を起点に、旅人や通行の距離の目安として、街道の両側に松や榎木などを1里ごと植えた一里塚を築きましたが、上図中央には鳥居本宿にも一里塚があったことを示しています。