鳥居本お宝発見隊

滋賀県彦根市の「鳥居本お宝発見隊」は、鳥居本宿のかつての賑わいをとりもどし、新たなまちの活力を見出すことを目的として結成されました。鳥居本の情報を発信していくブログです。

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2012-06-08-Fri-10-19

小野から旧鳥へ宿場の変更

 慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康は、江戸と京都を結ぶ重要な街道として東海道と中山道の宿駅の整備を始め、慶長7年(1602)中山道に、公用の継立場にあたる伝馬の制度を定めました。この年から400年を迎えた平成14年(2002)には、6つの宿場を持つ滋賀県をはじめ街道沿いの各地で400年記念のイベントが大々的に開催されました。
 江戸から63番目の鳥居本宿は、番場(現坂田郡米原町)と高宮の間に位置し、それぞれ約1里1町、1里半の距離があります。下矢倉村からは北国街道へ、南端の百々村からは朝鮮人街道(彦根道)が分岐し、まさに交通の要衝として発展してきました。
 鳥居本に宿場が置かれた時期については、いままでは小野の宿場が宿駅の機能を長年果たしていたと伝わっていましたが、このほど、彦根城博物館の調査によって、慶長8年(1603)に彦根に地割りをするために江戸からやってきた奉行嶋角左衛門が、小野宿で本陣を務める庄兵衛に、鳥居本に宿を移すように命じたという記述が確認されました。
 慶長7年(1602)7月幕府の命によって奈良屋・屋が中山道宿々の駄賃銭を定めた際には、小野村が伝馬継所とされていましたが、翌年には鳥居本に宿が移され、小野で代々本陣を務めていた寺村家が鳥居本宿の本陣を務めるようになったのです。(右上写真文書)
 鎌倉時代の『実暁記』では、守山・武佐・愛知川・番場・醒井・柏原の6宿が登場し、同じく鎌倉時代の『十六夜日記』には守山・野洲川・鏡・小野・醒井の地名が見られ、いずれも、中世の東山道の宿駅として存在し、中山道の宿駅制定後も宿場機能が続きましたが、高宮と鳥居本には、江戸時代になって新しく宿場が設置されました。
 一旦、小野に宿駅を命じた後に、幕府が鳥居本に宿を移すことを命じた背景には、彦根城下町の建設計画と密接なつながりがあったのです。直政の戦功で、佐和山城を拝領した井伊家では、佐和山城を改修することも視野に置きながらも、湖岸に近く、城下町を形成しやすい彦根山に築城することを決め、築城と同時に城下から中山道に出る脇街道のルートについてもこのとき決められたのです。
2012-06-08-Fri-10-18

本陣と脇本陣

 慶長8年、小野から鳥居本に宿場が移った時、小野宿で本陣を務めていた寺村庄兵衛は、引き続いて明治維新まで鳥居本宿で本陣を務めました。寺村家は、佐々木氏の一族で蒲生郡寺村(現在の蒲生町)に所領があったことから寺村の姓を名乗るようになり、六角氏の配下の武士でしたが、六角氏の滅亡後に、寺村行隆・規行親子が小野に住まいし、ここで本陣を務めるようになったと当家の系図が伝えています。病身であることから武士を捨てて本陣を務めるようになった規行には2人の兄弟があり、ともに長浜城主であった山内一豊に仕えています。規行から数えて10代目の義貴の時に、本陣は廃止となりました。
 本陣は、大名や公家・幕府の役人などが宿泊や休息をとった施設で、利用頻度が多かった守山や草津には2軒の本陣がありましたが鳥居本には1軒の本陣が定められていました。鳥居本本陣は合計201帖もある広い屋敷でしたが、昭和12年にはヴォーリズの設計によって和風洋館に建て替えられました。この建物は、和風様式を取り入れたヴォーリズ独特の建築様式を持つ近代化遺産として高く評価されています。本陣の面影は、母屋横の倉庫の門として現存する本陣の門扉に残されています。
 寺村家から一軒おいた隣には脇本陣と問屋を務めた高橋家があります。屋敷は昭和45年に建て替えられていますが、道路沿いの塀にはかつての脇本陣の趣が残ります。脇本陣は高橋家の他に本陣の前にもう1軒ありましたが、早くになくなっています。
 高橋家の表は問屋場としての機能を持ち、街道輸送に必要な馬や人足を常備して、宿場間の物流をスムーズに行うシステムの中に決められた機能を果たしていました。中山道では各宿場に50人の人足と50匹の馬を常備するように決められ、脇本陣の間取り図からは、人足たちがいろりを囲んで暖をとったであろうと想像できる10坪の広い広間が入り口近くにありました。問屋の仕事はかなりの重職で、これを補佐する年寄や庄屋・横目などと呼ばれる人が補佐していました。
 寺村家の文政12年(1829)から天保12年(1841)までの大福帳によると、本陣宿泊客の状況は、13年間に161回3594人が宿泊しています。1年間の利用回数にばらつきがありますが、平均で年間利用回数12.4回、1回の平均利用者数22.3人であったことがわかります。また1回の利用者数の最多は80人で、最小は2人で、実際は50~60人がその収容限度でした。参勤交代の大名の供揃のように200~300人に達すると、全部を本陣に収容することはできず、多い時には156軒の下宿が必要になったようです。
 宿場町時代からの屋号はいまも生活の中にいきていますが、本陣や問屋を務めた寺村家、高橋家は「ホンジ」「トイヤ」と呼ばれ、宿場町ならの呼び名が今に伝わります。
2012-06-08-Fri-10-17

街道のなりわい

街道のなりわい現在の矢倉付近

 鳥居本宿のまちなみの裏には田畑が広がり、住民は農業のほかに人馬継立や旅人の宿泊、飲食物の販売に従事し、旅籠屋は旅人の休泊をうけ、または食物を商う茶店があり、そのほかに商人・職人が少々いたようです。総数35軒の旅籠の中には、江戸湯島天神表通り大城屋良助が組織した全国組織の東講商人定宿に3軒の旅籠が加盟しています。
 当時の代表的な産業は「鳥居本の三赤」と称され、合羽・赤玉神教丸そして鳥居本すいかでした。太田南畝が享和2年(1802)に著した『壬戌紀行』では、「この駅にまた雨つつみの合羽をひさぐ家多し。油紙にて合羽をたたみたる形つくりて、合羽所と書しあり。江戸にて合羽屋といへるものの看板の形なり」と記され、当時、現存するような合羽の看板を掲げていたようです。また赤玉神教丸本舗は『近江名所絵図』に店頭での販売の様子が描かれています。鳥居本の三赤も今では、赤玉神教丸だけがその歴史を伝えています。
大正時代の鳥居本の商いのようす
〈矢 倉〉雨傘製造、生糸製造、塩屋、豆腐屋、薬屋、塩乾物販売店、荒物屋、大工
〈旧 鳥〉提灯屋、米屋、柿渋屋、牛宿、たばこ製造、菓子屋2軒、豆腐屋、材木屋、駐在所、旅籠2軒、合羽屋5軒、人力車屋5軒、指物師、鍋釜屋、おもちゃ屋、あんま、傘製造、麹屋、わらじ屋、茶販売、八百屋、日用品店、郵便局、小学校
〈下 町〉麹屋、酒屋、箱屋、表具屋、合羽屋5軒、玉突き屋、写真屋、
〈中 町〉役場、合羽5軒、呉服屋、あんま、理髪店、髪結い、人力車屋、大工、指物師、産婆、桶屋、米屋
〈上 町〉合羽4軒、料理屋、麻製造、医院、髪結い、豆腐屋、米屋、下駄屋、表具師、あんま、玉突き
〈百 々〉菓子屋、仕出し、理髪店、髪結い、日用品店、人力車、臼製造、竹箒、油屋、米屋、写真屋、玉突き、網製造
〈南甲田〉三味線糸張り、太鼓張り
〈下矢倉〉休み宿、餅屋
上記は、残された記録を転載したもので、確証はないが鳥居本にも多くの商いがあったことを示しているといえよう。(明治生まれの人の「覚え書帳」より転載)
2012-06-08-Fri-10-14

赤玉神教丸

赤玉神教丸
現在製造販売されている赤玉神教丸

 鳥居本宿有川市郎兵衛家の神教丸は、腹痛、食傷、下痢止めの妙薬として有名で、300年以上の歴史を誇っています。創業は元治元年(1658)と伝わり、「お伊勢七度、熊野へ三度、お多賀さんには月詣り」とうたわれた多賀神社の神教によって調製したことが始まりです。そしてこのことから「神教丸」という名がつきました。多賀の坊宮が全国を巡廻して、多賀参りを勧誘する際、神薬として各地に持ち歩いたのでしょう。
 有川家の先祖は磯野丹波守に仕えた郷士で、鳥居本に居を構えたころは、鵜川氏を名乗っていましたが、有栖川宮家への出入りを許されたことが縁で、有川の姓になったといわれます。神教丸は、胡椒・胡黄蓮・苦参・楊梅皮の配剤に寒晒米の溶汁や実胡桃油を調合して製造し、20粒入りを一服として販売されていました。
 有川家では『近江名所図会』に見られるような店舗販売を主に行い、配置売りなどの行商の形態をとりませんでしたから、中山道を往来する旅行者が競って赤玉神教丸を求めたのです。別の販売所としては、享保15年(1730)には大津髭茶屋町に出店しているのが唯一でした。 神教丸の評判が高まると、まがい物が登場する事となり、文化12年(1815)に刊行された『近江名所図会』では、有川家の店頭のようすとともに「此駅の名物神教丸、俗に鳥居本赤玉といふ。此店多し」と記されているように、「仙教丸」や「神吉丸」という類似した薬を販売した業者がいたことを示しています。有川家では、明和3年(1766)以降に、類似薬の販売差し止め訴訟を起こしています。最初の事件は大津の出店から情報が寄せられたようで、藤屋久兵衛という人が15ヶ所の「取次所」を通じて薬の販売を行ったというのです。鳥居本と大津でしか販売していないはずの神教丸を各地で販売するのはまさに営業妨害であると、当主有川市郎兵衛は病をおして江戸に出向き、交渉の末、営業を差し止め、贋薬や看板・引札などを没収しました。その後明和8年(1771)にも大津に住む油屋庄右衛門との間に訴訟が起こっていますが、京都奉行所から「赤玉 神教丸」は鳥居本の有川市郎兵衛の製法する薬であり、紛らわしい類似の看板や薬銘をいっさい禁じるという決定が下っています。それでも手を変え品を変え、類似品が登場しましたが、その都度交渉をした有川家はいずれの場合も交渉に成功しています。「神教丸 鳥本一朗右衛門製」「江州鳥居本本家 神教丸」「鳥居本本家 神教丸」「延命神教丸」「江州播磨田福岡自右衛門製」など紛らわしい薬を見ることができます。
 有川家本舗では、製薬に従事する職人、販売人、番頭を合せると、その数は40人を超え盛時には80人にも上ったといわれ、戦前までは国内は勿論、アメリカや中国にまで販路を持っていました。現在鳥居本の丸薬といえば神教丸を指しますが、江戸時代に彦根藩が編纂した『淡海木間攫』によると、小野村の「小野丸」や、百々氏が製造を伝えた「百々丸」という丸薬が販売されていました。有川家の建物は寛暦年間(1751~1764)に建てられ、明治11年の明治天皇北国巡幸の時には右手に別棟の建物が増築され御休憩所になりました。
2012-06-08-Fri-10-10

鳥居本合羽

 鳥居本宿で合羽製造が始まったのは、享保5年(1720)馬場弥五郎の創業であると伝わります。若くして大坂に奉公にでた弥五郎は、当時、需要に追いついていない合羽製造の改革を決意し、奉公先の坂田屋の屋号を譲り受けて鳥居本宿で開業し、新しく菜種油を使用していた合羽製造に柿渋を用いることを奨励しましたので、一躍、鳥居本宿で雨具の名声はたかまりました。柿渋は、保温性と防水防湿性に富み、雨の多い木曽路に向かう旅人は、こぞって鳥居本宿場で雨具としての合羽を求めるようになりました。
 鳥居本合羽が赤いのは、柿渋を塗布するときに紅殻を入れたことによるとされます。赤い合羽はとくに上もので、主に北陸方面に販売されました。江戸時代より雨具として重宝された渋紙や合羽も戦後のビニールやナイロンの出現ですっかりその座を明け渡すこととなり、今では看板のみが産地の歴史を伝えています。
鳥居本合羽
天保3年創業、戦前まで合羽を製造していた「合羽所 木綿屋」