鳥居本お宝発見隊

滋賀県彦根市の「鳥居本お宝発見隊」は、鳥居本宿のかつての賑わいをとりもどし、新たなまちの活力を見出すことを目的として結成されました。鳥居本の情報を発信していくブログです。

お知らせとりいもと宿場まつり鳥居本のおいたちアクセス
2012-06-21-Thu-18-12

中山道ウォークの休憩所が誕生

交流センター
これまで鳥居本宿を散策するみなさんにご不自由をおかけしていましたが、宿場の中心部に、休憩所が改装され、5月13日に開所式が行われました。
まちなみとの調和を考慮した外観が素敵です。開所式には人気キャラクターひこにゃんが登場、地元民の大歓迎の中テープカットされました。

正式名称はまだ決定していませんが、近々にご報告しましょう。
1995年まで彦根市の出張所として使われていた建物がリニューアルされたのです。是非お立ち寄りください
2012-06-20-Wed-16-44

第5回宿場まつり開催予告

歴史と街道の交差点「鳥居本宿」をテーマに

本年もとりいもと宿場まつり開催します。

日時 平成24年9月30日 10時スタート
場所 旧中山道鳥居本宿街道沿い一帯(彦根市鳥居本町)


好評の「仏生寺みそ」「三成汁」に続き地元産品が多数新登場

ジビエレストラン開店
柿渋染め体験
名物「スイカ糖」の復元 
など 楽しみ満載

ご期待ください

当日の出店者募集中
アートバザール部門 (自慢の一品、こだわりの作品など)
フリーマーケット部門(地場産野菜、花苗や衣類などのリサイクル品)
参加・出店について
■参加資格:制限はありません(学区外の参加も大歓迎)
■販売場所:中山道鳥居本街道沿いの指定場所
■出店料・売上手数料:出店料は1区画につき1000円、売上手数料は不要
           出店料は当日、開催本部までご持参ください
■申込締め切り 平成24年8月30日

 お問合わせ先 090-1224-3246 まで 
2012-06-11-Mon-10-30

鳥居本お宝発見隊です

滋賀県彦根市鳥居本を「まちおこし」の拠点に活動していますメンバーのブログです。
鳥居本お宝発見隊です
写真は鳥居本駅。第4回近畿の駅百選に選ばれました近江鉄道本線の駅です。ちなみに、同じ第4回に彦根駅(JR西日本、滋賀県彦根市)も認定されました。
2012-06-08-Fri-10-43

今年も開催「第4回とりいもと宿場まつり」

2011年 8月 11日
―学ぼう、楽しもう『石田三成と鳥居本宿』―
今年も開催「第4回とりいもと宿場まつり」
  
好評の「仏生寺みそ」のほか「三成むすび」「とりいもと汁」も誕生
新企画の参加に期待がかかる第4回の宿場まつり
 
日時 平成23年10月2日(日)9時30分開会 16時閉会
場所 旧中山道鳥居本街道一帯
  (鳥居本郵便局から有川製薬様まで)
特別公演「石田三成と佐和山城」
長浜城歴史博物館参事 太田浩司 氏 13時30分から 専宗寺

  
<当日の主な内容>
●まるごと佐和山城ミニツアー 9時受付開始 鳥居本駅集合
⇒申込 0748-46-6144
●鳥居本に電気機関車がやってくる(終日)
●写真展「鳥居本駅舎の四季」近江鉄道鳥居本駅舎
●今に息づく鳥居本宿絵画展:街道一帯
●宿場町の民家の公開と展示
県指定文化財「神教丸」店舗/三成陣幕と佐和山発掘パネル展示/油絵ギャラリー
旧庄屋成宮家/合羽所「木綿屋」/旧旅籠「鈴の音」 ほか
●特別展示:上品寺 歌舞伎のモデル法海坊ゆかりの品々
●鳥本の歴史と民話紙芝居上演:わらび座
●手づくり市(アートバザールとフリーマーケット)
●体験講座  など

↓写真は昨年の宿場まつりのようす↓
今年も開催「第4回とりいもと宿場まつり」

今年も開催「第4回とりいもと宿場まつり」

今年も開催「第4回とりいもと宿場まつり」

今年も開催「第4回とりいもと宿場まつり」

今年も開催「第4回とりいもと宿場まつり」
2012-06-08-Fri-10-41

鳥居本交通案内

滋賀県彦根市鳥居本町
名神高速道路彦根インターチェンジよりお車で来られる場合
:10分以内です。
琵琶湖線をご利用の場合
:JR彦根駅下車 近江鉄道米原行 鳥居本駅下車 駅前です。
新幹線をご利用の場合
:米原駅下車 タクシーまたは近江鉄道彦根行をご利用下さい。
鳥居本交通案内
中山道400年記念ウォーク
2012-06-08-Fri-10-19

小野から旧鳥へ宿場の変更

 慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康は、江戸と京都を結ぶ重要な街道として東海道と中山道の宿駅の整備を始め、慶長7年(1602)中山道に、公用の継立場にあたる伝馬の制度を定めました。この年から400年を迎えた平成14年(2002)には、6つの宿場を持つ滋賀県をはじめ街道沿いの各地で400年記念のイベントが大々的に開催されました。
 江戸から63番目の鳥居本宿は、番場(現坂田郡米原町)と高宮の間に位置し、それぞれ約1里1町、1里半の距離があります。下矢倉村からは北国街道へ、南端の百々村からは朝鮮人街道(彦根道)が分岐し、まさに交通の要衝として発展してきました。
 鳥居本に宿場が置かれた時期については、いままでは小野の宿場が宿駅の機能を長年果たしていたと伝わっていましたが、このほど、彦根城博物館の調査によって、慶長8年(1603)に彦根に地割りをするために江戸からやってきた奉行嶋角左衛門が、小野宿で本陣を務める庄兵衛に、鳥居本に宿を移すように命じたという記述が確認されました。
 慶長7年(1602)7月幕府の命によって奈良屋・屋が中山道宿々の駄賃銭を定めた際には、小野村が伝馬継所とされていましたが、翌年には鳥居本に宿が移され、小野で代々本陣を務めていた寺村家が鳥居本宿の本陣を務めるようになったのです。(右上写真文書)
 鎌倉時代の『実暁記』では、守山・武佐・愛知川・番場・醒井・柏原の6宿が登場し、同じく鎌倉時代の『十六夜日記』には守山・野洲川・鏡・小野・醒井の地名が見られ、いずれも、中世の東山道の宿駅として存在し、中山道の宿駅制定後も宿場機能が続きましたが、高宮と鳥居本には、江戸時代になって新しく宿場が設置されました。
 一旦、小野に宿駅を命じた後に、幕府が鳥居本に宿を移すことを命じた背景には、彦根城下町の建設計画と密接なつながりがあったのです。直政の戦功で、佐和山城を拝領した井伊家では、佐和山城を改修することも視野に置きながらも、湖岸に近く、城下町を形成しやすい彦根山に築城することを決め、築城と同時に城下から中山道に出る脇街道のルートについてもこのとき決められたのです。
2012-06-08-Fri-10-18

本陣と脇本陣

 慶長8年、小野から鳥居本に宿場が移った時、小野宿で本陣を務めていた寺村庄兵衛は、引き続いて明治維新まで鳥居本宿で本陣を務めました。寺村家は、佐々木氏の一族で蒲生郡寺村(現在の蒲生町)に所領があったことから寺村の姓を名乗るようになり、六角氏の配下の武士でしたが、六角氏の滅亡後に、寺村行隆・規行親子が小野に住まいし、ここで本陣を務めるようになったと当家の系図が伝えています。病身であることから武士を捨てて本陣を務めるようになった規行には2人の兄弟があり、ともに長浜城主であった山内一豊に仕えています。規行から数えて10代目の義貴の時に、本陣は廃止となりました。
 本陣は、大名や公家・幕府の役人などが宿泊や休息をとった施設で、利用頻度が多かった守山や草津には2軒の本陣がありましたが鳥居本には1軒の本陣が定められていました。鳥居本本陣は合計201帖もある広い屋敷でしたが、昭和12年にはヴォーリズの設計によって和風洋館に建て替えられました。この建物は、和風様式を取り入れたヴォーリズ独特の建築様式を持つ近代化遺産として高く評価されています。本陣の面影は、母屋横の倉庫の門として現存する本陣の門扉に残されています。
 寺村家から一軒おいた隣には脇本陣と問屋を務めた高橋家があります。屋敷は昭和45年に建て替えられていますが、道路沿いの塀にはかつての脇本陣の趣が残ります。脇本陣は高橋家の他に本陣の前にもう1軒ありましたが、早くになくなっています。
 高橋家の表は問屋場としての機能を持ち、街道輸送に必要な馬や人足を常備して、宿場間の物流をスムーズに行うシステムの中に決められた機能を果たしていました。中山道では各宿場に50人の人足と50匹の馬を常備するように決められ、脇本陣の間取り図からは、人足たちがいろりを囲んで暖をとったであろうと想像できる10坪の広い広間が入り口近くにありました。問屋の仕事はかなりの重職で、これを補佐する年寄や庄屋・横目などと呼ばれる人が補佐していました。
 寺村家の文政12年(1829)から天保12年(1841)までの大福帳によると、本陣宿泊客の状況は、13年間に161回3594人が宿泊しています。1年間の利用回数にばらつきがありますが、平均で年間利用回数12.4回、1回の平均利用者数22.3人であったことがわかります。また1回の利用者数の最多は80人で、最小は2人で、実際は50~60人がその収容限度でした。参勤交代の大名の供揃のように200~300人に達すると、全部を本陣に収容することはできず、多い時には156軒の下宿が必要になったようです。
 宿場町時代からの屋号はいまも生活の中にいきていますが、本陣や問屋を務めた寺村家、高橋家は「ホンジ」「トイヤ」と呼ばれ、宿場町ならの呼び名が今に伝わります。
2012-06-08-Fri-10-17

街道のなりわい

街道のなりわい現在の矢倉付近

 鳥居本宿のまちなみの裏には田畑が広がり、住民は農業のほかに人馬継立や旅人の宿泊、飲食物の販売に従事し、旅籠屋は旅人の休泊をうけ、または食物を商う茶店があり、そのほかに商人・職人が少々いたようです。総数35軒の旅籠の中には、江戸湯島天神表通り大城屋良助が組織した全国組織の東講商人定宿に3軒の旅籠が加盟しています。
 当時の代表的な産業は「鳥居本の三赤」と称され、合羽・赤玉神教丸そして鳥居本すいかでした。太田南畝が享和2年(1802)に著した『壬戌紀行』では、「この駅にまた雨つつみの合羽をひさぐ家多し。油紙にて合羽をたたみたる形つくりて、合羽所と書しあり。江戸にて合羽屋といへるものの看板の形なり」と記され、当時、現存するような合羽の看板を掲げていたようです。また赤玉神教丸本舗は『近江名所絵図』に店頭での販売の様子が描かれています。鳥居本の三赤も今では、赤玉神教丸だけがその歴史を伝えています。
大正時代の鳥居本の商いのようす
〈矢 倉〉雨傘製造、生糸製造、塩屋、豆腐屋、薬屋、塩乾物販売店、荒物屋、大工
〈旧 鳥〉提灯屋、米屋、柿渋屋、牛宿、たばこ製造、菓子屋2軒、豆腐屋、材木屋、駐在所、旅籠2軒、合羽屋5軒、人力車屋5軒、指物師、鍋釜屋、おもちゃ屋、あんま、傘製造、麹屋、わらじ屋、茶販売、八百屋、日用品店、郵便局、小学校
〈下 町〉麹屋、酒屋、箱屋、表具屋、合羽屋5軒、玉突き屋、写真屋、
〈中 町〉役場、合羽5軒、呉服屋、あんま、理髪店、髪結い、人力車屋、大工、指物師、産婆、桶屋、米屋
〈上 町〉合羽4軒、料理屋、麻製造、医院、髪結い、豆腐屋、米屋、下駄屋、表具師、あんま、玉突き
〈百 々〉菓子屋、仕出し、理髪店、髪結い、日用品店、人力車、臼製造、竹箒、油屋、米屋、写真屋、玉突き、網製造
〈南甲田〉三味線糸張り、太鼓張り
〈下矢倉〉休み宿、餅屋
上記は、残された記録を転載したもので、確証はないが鳥居本にも多くの商いがあったことを示しているといえよう。(明治生まれの人の「覚え書帳」より転載)
2012-06-08-Fri-10-14

赤玉神教丸

赤玉神教丸
現在製造販売されている赤玉神教丸

 鳥居本宿有川市郎兵衛家の神教丸は、腹痛、食傷、下痢止めの妙薬として有名で、300年以上の歴史を誇っています。創業は元治元年(1658)と伝わり、「お伊勢七度、熊野へ三度、お多賀さんには月詣り」とうたわれた多賀神社の神教によって調製したことが始まりです。そしてこのことから「神教丸」という名がつきました。多賀の坊宮が全国を巡廻して、多賀参りを勧誘する際、神薬として各地に持ち歩いたのでしょう。
 有川家の先祖は磯野丹波守に仕えた郷士で、鳥居本に居を構えたころは、鵜川氏を名乗っていましたが、有栖川宮家への出入りを許されたことが縁で、有川の姓になったといわれます。神教丸は、胡椒・胡黄蓮・苦参・楊梅皮の配剤に寒晒米の溶汁や実胡桃油を調合して製造し、20粒入りを一服として販売されていました。
 有川家では『近江名所図会』に見られるような店舗販売を主に行い、配置売りなどの行商の形態をとりませんでしたから、中山道を往来する旅行者が競って赤玉神教丸を求めたのです。別の販売所としては、享保15年(1730)には大津髭茶屋町に出店しているのが唯一でした。 神教丸の評判が高まると、まがい物が登場する事となり、文化12年(1815)に刊行された『近江名所図会』では、有川家の店頭のようすとともに「此駅の名物神教丸、俗に鳥居本赤玉といふ。此店多し」と記されているように、「仙教丸」や「神吉丸」という類似した薬を販売した業者がいたことを示しています。有川家では、明和3年(1766)以降に、類似薬の販売差し止め訴訟を起こしています。最初の事件は大津の出店から情報が寄せられたようで、藤屋久兵衛という人が15ヶ所の「取次所」を通じて薬の販売を行ったというのです。鳥居本と大津でしか販売していないはずの神教丸を各地で販売するのはまさに営業妨害であると、当主有川市郎兵衛は病をおして江戸に出向き、交渉の末、営業を差し止め、贋薬や看板・引札などを没収しました。その後明和8年(1771)にも大津に住む油屋庄右衛門との間に訴訟が起こっていますが、京都奉行所から「赤玉 神教丸」は鳥居本の有川市郎兵衛の製法する薬であり、紛らわしい類似の看板や薬銘をいっさい禁じるという決定が下っています。それでも手を変え品を変え、類似品が登場しましたが、その都度交渉をした有川家はいずれの場合も交渉に成功しています。「神教丸 鳥本一朗右衛門製」「江州鳥居本本家 神教丸」「鳥居本本家 神教丸」「延命神教丸」「江州播磨田福岡自右衛門製」など紛らわしい薬を見ることができます。
 有川家本舗では、製薬に従事する職人、販売人、番頭を合せると、その数は40人を超え盛時には80人にも上ったといわれ、戦前までは国内は勿論、アメリカや中国にまで販路を持っていました。現在鳥居本の丸薬といえば神教丸を指しますが、江戸時代に彦根藩が編纂した『淡海木間攫』によると、小野村の「小野丸」や、百々氏が製造を伝えた「百々丸」という丸薬が販売されていました。有川家の建物は寛暦年間(1751~1764)に建てられ、明治11年の明治天皇北国巡幸の時には右手に別棟の建物が増築され御休憩所になりました。
2012-06-08-Fri-10-10

鳥居本合羽

 鳥居本宿で合羽製造が始まったのは、享保5年(1720)馬場弥五郎の創業であると伝わります。若くして大坂に奉公にでた弥五郎は、当時、需要に追いついていない合羽製造の改革を決意し、奉公先の坂田屋の屋号を譲り受けて鳥居本宿で開業し、新しく菜種油を使用していた合羽製造に柿渋を用いることを奨励しましたので、一躍、鳥居本宿で雨具の名声はたかまりました。柿渋は、保温性と防水防湿性に富み、雨の多い木曽路に向かう旅人は、こぞって鳥居本宿場で雨具としての合羽を求めるようになりました。
 鳥居本合羽が赤いのは、柿渋を塗布するときに紅殻を入れたことによるとされます。赤い合羽はとくに上もので、主に北陸方面に販売されました。江戸時代より雨具として重宝された渋紙や合羽も戦後のビニールやナイロンの出現ですっかりその座を明け渡すこととなり、今では看板のみが産地の歴史を伝えています。
鳥居本合羽
天保3年創業、戦前まで合羽を製造していた「合羽所 木綿屋」
2012-06-08-Fri-10-09

鳥居本合羽の歴史

 馬場弥五郎の工夫で、良質の合羽製造を行ってきた鳥居本合羽は、戦後まで、鳥居本の重要な産業でした。元文、寛保年間(1736~1742)の製造業者数は10戸を数え、寛延・宝暦(1749~1763)になると13戸、文化・文政(1804~1829)には15戸に増加したとされます。店頭販売の他、行商、諸候の用達などもおこない、販路の開拓に努めています。維新以降、明治20 年(1887)には同業組合を結成し、時代に即応した規約を設けて事業の振興に努力してきました。
 彦根市史では、「大正初期には同業者20戸従業員数200人を超えるに至った」と記載されていますが、明治20年に設立された日本油脂加工製造組合の資料から、昭和初期の業者数や従業員数を鑑みると従業員が200名に登ったという事実は信じられません。最盛期でも40~50名の従業員で、多くの合羽製造業者は家内従事者を主とした形態であったと考えられます。原材料の協同購入や品質管理などを行ってきた組合も、戦争中の物資統制によって、昭和17年には解散し、日本油紙工業会近畿支部として丸田屋ら数名が加盟しています。
 文化2年(1805)に坂田屋から分家した丸田屋の生産高は鳥居本での首位の座を確保していましたが、昭和31年の火災後には生産が中止となり、丸田屋に次いで昭和32年には住田屋も廃業し、鳥居本合羽の生産は終焉したようです。昔ながらの合羽の看板を掲げる松屋は、文政8年(1825)に丸田屋から分家し、昭和の時代には縄などの製造販売に転じましたが、作業所をはじめ、詳細な家屋配置図が彦根市の調査報告書や上田道三氏の記録画に残りました。
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合羽の種類

 雨具として着用した合羽の種類には丸合羽、袖合羽、鎧合羽、頭巾合羽、筒神合羽などがあり、他に子供着合羽、御奉礼みこし用、雨がけ、百姓のゴザ合羽など用途に応じた雨合羽がつくられてきました。赤い鳥居本合羽が有名ですが、明治以前には黒や藍の合羽も生産されています。雨具の他には、防塵・防湿の効果があることから荷車に掛けるシート状のものや、荷造り・小包用の包装紙、農作業の時に用いる雨ゴザ合羽が製造され、戦時中には軍用の渋紙や合羽の製造も盛んでした。
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鳥居本合羽ができるまで

鳥居本合羽製造の詳しい記録は残っていないが、製造に携わった川崎三郎さんや住田屋の子孫、角田稔さんからの聞き取りと存在する資料によって、概要をまとめることができた。しかし、時代によって材料や製法、用途は大きく異なったものと考えられるので、この資料は絶対的なものでないことをお断りしたい。
柿渋つくり
渋は土地の青柿を用いて、各家で柿渋を作り大きな桶に貯蔵していました。組合で一括青柿を仕入れていたようですが、正法寺あたりから、青柿を売りに来ていたという老人の証言もありました。鳥居本の運動会は青柿の収穫時期を避けておこなわれたという話も伝わります。合羽作りに不可欠な柿渋作りは、地域社会に大きな影響を及ぼす大切な仕事でしたが、周期的な豊作・不作への防止策に腐心したようです。合羽屋宅には大概、大量の柿渋を貯蔵するための渋倉がありました。
 渋作りに最適な小粒品種の柿は、8月中旬から下旬にかけて赤くなる前に採果され、石臼や米撞き臼で搗いて砕き、適量の水を加えて絞り、大きな桶に入れて貯蔵して発酵させます。発酵が進むほど渋は黒く変色し、長い時間醸成するほどに良質の渋となります。
用紙の選定
原材料の紙は、若狭や大阪、あるいは土佐、伊予国産の仙花、後には美濃産のもの購入し、用途に応じた原材料が使用されたようです。最適な紙は和紙ですがマニラ仙花などの洋紙も使用されています。購入した用紙の品質別に等級分けされます。用紙の大きさは1尺×1.5尺の小型と2尺×3尺の大型の2種があったようです。
小継
同じ等級の用紙を張り合わせる作業を小継ぎといいます。用途によって張り合わせて必要な大きさに仕上げます。32枚継ぎ、56枚継ぎなどの商品の存在が商品別原価票で確認できます。張り合わせは、大きさを確保すると同時に強度を高める効果もありました。糊の調合にも工夫があったようですが詳細は判明しません。美濃紙を1列に長く張り合わせる小継ぎ作業は1人で行えますが、必要な大きさに整える「大継」は1人では行う事ができず、女性が手伝うことがありました。56枚継ぎともなると306cm×205cmの大きさになりました。
仕上げ寸法に断裁
大継ぎ後は、仕上げ寸法どおりに断裁する作業に入ります。ヘラのような包丁で木製の定規を当てて、必要寸法に切り取り、四方は折り曲げられるので3cm程度の余裕を作っています。断裁用の包丁研ぎは子どもの仕事で回転式の砥石で頻繁に研磨しました。
糸いれ
仕上がりのサイズによって、糸の太さを変え、コヨリのような柔らかい糸や麻糸などを芯にして紙の四方を折り曲げ、糊で張り合わせます。糸入れは、紙の端をほつれにくくし、製品が破れにくくするための工夫です。大型シートには対角線に糸が入ったものもあります。
製造業者名の押印
用紙の準備が終わると墨を塗った版木で商標印を押します。木綿屋に残る仕掛品には「本揉み木綿屋 江州鳥居本宿」という15cm×10cmの捺印がありますが、自家名以外の卸業者名の版木もあり、製造卸をしていたことがわかります。木綿屋では、滋賀県南部から伊勢方面を主たる販売先としていましたが、住田屋では近江用と北陸用の製品を作っていました。押印は製造工程の中でも単純な作業なので、子どもが手伝わされました。
紙揉み
渋や油の吸収を良くするために、紙を揉んで皺を入れる作業は大変重要ですから熟練工が担当し、手揉み足揉みで用紙に皺を入れます。柿渋を含むと柔らかくなるので作業は容易になりますが、堅い紙は扱いにくいので、夜露にあててしんなりさせてから紙揉みを行います。十分な紙揉みができていないと最終の油の付着に大きく影響するので気が抜けない作業です。
渋引き
紙の準備が終わると渋が塗られます。渋汁に紅殻を入れると発色が赤くなりますが、北陸用合羽は濃い目、近江用は明る目が好まれました。渋引きは手で握る部分がついただけの簡素な20cm位の刷毛でまんべんなく渋を塗り、これを乾かして干すと渋紙の完成です。油を塗布しない渋紙は畳の合い敷きとして重宝されたものです。
油引き
渋紙に油を薄く引き、乾かす作業が何回も繰り返されると合羽が完成します。商品の等級によって回数が決められていたようですが、川崎さんの記憶では定かではありません。荏油が主に使用されましたが、戦時中には亜麻に油、松根油が補充用として使用されています。桐油、機械油の特徴を活かし、調合して使用されていました。
合羽干し
渋を塗っただけの紙は約1日で乾燥しますが、油引き後は容易には乾燥しません。油引き後2~3日はまだ油が十分浸透しないので、取り入れる時は十分注意をしないと自然発火する危険性があります。合羽屋の朝は早く、太陽が昇ると油引きした商品を干す作業が始まります。雨が降りそうになると急いで取り入れるなど、猶予のない作業が続きます。太陽の熱がある間に何枚も重ねると、余熱で夜間にも乾燥が進みますが、油引き直後だけは、直接重ねないで2つ折りを山形にして乾燥させ、自然発火を防止しました。干場は草を短く整えたり、石を敷き詰めるなど工夫され、風で飛ばされないための重し用の石ころも随所に用意されていました。地面に直接並べるほかに、稲の「はさ掛け」と同様に杭や竹で干場が作られることもありました。干場近くには収納のための小屋があり、夜間や降雨時の保管場所となっていましたが、発火性のある商品の貯蔵は油断できず、夜の見回りは欠かせなかったようです。鳥居本周辺の土地では十分な干場が確保できず大堀あたりに干場用の田畑を借りたり、川原を干場とした業者もありました。旧鳥や中町あたりの合羽屋では、自宅から山田神社までを他人の地所を通ることなく参詣できたという家もあり、広い干場の確保が生産力を左右しました。
仕上げ加工
販売地域によって同じ用途でも仕上げの方法が異なり、ひもやハトメの打ち方には変化があり、留め具などの附属品は完成直前に付けて製品が完成します。
 解散時の業者名
滋賀県油紙工業組合は昭和17年5月に解散、新たに日本加工紙組合に統合されましたが、解散時の組合員は11名。松本弥太郎(丸田屋)、北村甚五郎(富田屋)、松本宇之輔(松屋)、角田文右衛門(住田屋)、寺村真三(寺村商店)、岩根嘉右衛門(木綿屋)、成宮嘉右衛門(鳴海屋)、北澤半三郎、西山鉄次郎 陸田屋、沢庄、角田屋らが合羽製造を行っていたようです。
ほかに愛知川西澤市治郎や大津市の田中末吉の名前が残ります。
鳥居本合羽ができるまで
屋根に掲げられる元合羽屋の看板(松本道昭宅)
2012-06-08-Fri-09-52

鳥居本と湖東焼き

鳥居本と湖東焼き
現旧鳥集会所。元は「米屋」という旅籠、自然斎の窯があった

 彦根城下の呉服商絹屋半兵衛が始めた湖東焼きは、彦根藩窯となり多くの名作を生み出してきましたが、彦根藩主直亮・直弼の両名は藩窯としての湖東焼きの精度を高めると同時に、一方では領内の殖産振興の一貫として一般市場での販路開拓をめざしていました。
 百姓が農作業の余暇に行う内職として許されていた湖東焼き販売は、彦根藩の販売方法とは異なった手法で成果を上げるようになってきました。そして安政3年(1856)に民間で湖東焼きを行っていた原村の右平次(床山)、鳥居本村の治平(自然斎)、高宮村の善次郎、彦根白壁町(現本町)の松之介(賢友)が、株仲間を結成して彦根藩から鑑札を受けたい旨を願い出ました。松之介以外は、中山道沿いに暮らし、ここで旅人への土産物として湖東焼きの販売を積極的に展開していました。すでに中山道の街道沿いでは、湖東焼きは旅人に人気があり、評価が高まっていたのです。翌年に彦根藩は4人に「赤絵焼付窯元」の免許鑑札を与えました。
 井伊直弼の桜田門外での非業の最期とともに藩窯湖東焼きは終焉しましたが、鳥居本に住まいした自然斎、床山らによってその後も湖東焼きが受け継がれました。彼らが受けた鑑札は譲渡可能で子孫相伝ということになっていましたが、いずれも1代限りで終わり、時代の変遷とともに湖東焼きもその歴史を閉じることとなりました。
<自然斎>
現在の旧鳥集会所で旅籠「米屋」を営んでいた治平は号を自然斎といい、円山派の写実的な画風で達者な筆致の優れた作品を多く作りましたが、一方で贋作も多いといわれます。紀州の殿様から酒杯3個の注文に応じて小さな杯に100人の人物を描いたことで視力を害し、やがて街道の往来の減少は、旅籠や湖東焼き販売に大きな影響をおよぼし、やむなく西江州に移り、明治7年(1872)に高島郡安曇川町で亡くなりました。赤絵や色絵に独特な奔放さがみられる作品が多く残ります。
<床山>
床山の号を持つ石崎右平次は芹橋9丁目(現芹橋2丁目)の芹橋組の足軽でしたが、中島牧太安泰に狩野派の絵画を習い、湖東焼きの絵付けを覚えました。やがて病気が理由で隠居を願い出て原村に移り住み、ここで赤絵焼付を業としました。床山は自然斎に絵を教えたと伝わり狩野派の正統を踏む図柄は緻密で豪華で、精巧な作品を多く残します。彦根藩へのお抱えの要請もあったのですが、独立して終生、原村で焼き続け、慶応3年(1867)に病死しました。
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鳥居本から始まった「花緒の生産」

 現在では、長浜が花緒の生産額で全国でも優位にありますが、長浜での花緒の製造の嚆矢は鳥居本の寺村信次さんの努力が影響しています。『鳥居本の姿』には「大正時代末期に始まった湖北三郡のビロード生産の大部分が花緒の原材料として、東京、京都、大阪などに移出されていました。昭和初期は大変な不況の時代で滋賀県では産業振興と失業対策として、都会の花緒技術者を招聘して花緒製造の講習会を開催しましたが、短期間で習熟する事ができず、当初の計画は挫折しましたが、この講習会を受講していた寺村信次さんが、昭和2年から数年、先進地大阪で花緒生産の技術を学び、技術を鳥居本に持ち帰り、滋賀県で初めて花緒の生産を始めた」と記されていますが、滋賀県市町村沿革史によると明治13年に甲田村では12件の製造業者があり、年間に700足が生産され彦根に販売されています。寺村さんは、大阪に出張所を設け、新しい技術の習得と職人の養成をおこない、昭和12年には大阪から長浜に本拠を移していることから、今の長浜の花緒生産の始まりに大きな影響を与えたといえるでしょう。昭和25年には、鳥居本の花緒生産は年間約2万足を数えています。当時、10名で鳥居本花緒工業協同組合を組織していましたが、産地を控えた強みのある滋賀県全体で600以上の業者によって滋賀県の重要な特産品の一つとなっていたのです。戦後には、馬場イサブロウさん。寺村信次さん、西山の武田さん、物生山の北村さんが生産を続けていましたが、その後の全国的な和装離れにより、下駄の使用が激減し、すっかり姿を消しました。
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鳥居本に残る「反本丸」の版木

 江戸時代、幕府は生牛馬屠畜を禁止し、庶民もまた肉に対して禁忌意識を持っていましたが、彦根藩は公然と牛肉の味噌漬けや干し肉を作り将軍家などに献上しています。そして、彦根藩士によって牛の内臓で調合し作られた「反本丸」という強壮剤は広く販売されていましたが、鳥居本での販売の形跡が伺える版木が残ります。詳細は調査の結果を待たないと何ともいえませんが、近江牛に関連する事実が鳥居本にあったようです。
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摺針峠の由来

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百々の道標
「右 彦根道」「左 中山道 京いせ道」「文政十丁亥秋建立」と刻まれる道標。狭い道路角に立つことからたびたび、災難を受けてきたが平成14年には一部修復され、自動車などが当たらない工夫が施された。文政10年(1827)に建立され、朝鮮人街道との分岐点を示している。


 摺針峠は、中山道随一の名勝として知られ、ここからの眺望は「眼前好風景なり。山を巡て湖水あり。島あり。船あり。遠村あり。竹生島は乾の方に見ゆる。画にもかかまほしき景色なり」(『近江輿地志略』)と記されているように多くの絵画の題材になっています。摺針峠の名前の起こりは、「京都で学んでいた学生が学業半ばで帰路に就いている途中、この地を通り、一人の老婆が一生懸命に斧を研いでいる光景にであい、『斧を研いで針にする』という言葉を聞いて、自分の志が足りないことを恥じて再び京都に戻り学業に励んだ。この学生が後の弘法大師である」という話に由来すると伝わります。大津市出身の日本画家小倉遊亀氏はこのテーマを題材に大作を仕上げたことで有名ですが、峠には、このときに弘法大師が植えたという「弘法杉」が大きく枝を伸ばしていました。
 峠にはかつて多くの茶店がならび、「するはり餅」という名物に人気が集まったといわれます。望湖堂は、茶店とはいえ本陣を思わすような構えの建物で、明治天皇や皇女和の宮さまがご休憩され、大いに繁栄しましたが、鳥居本宿や番場宿からは寛政7年(1795)に本陣紛いの営業を慎むようにとの抗議がでています。朝鮮通信使の一行が、江戸への行き帰りに立ち寄ったことを記す文書や扁額など貴重な資料が多く残っていましたが、惜しくも平成3年の火災で建物とともに消失しました。現在の建物はその後建設されたものです。

摺針峠の由来
木曾街道六十九次(岩根豊秀孔版画)

摺針峠の由来
焼失前の望湖堂の全景。左に弘法杉が見える
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小野から旧鳥へ宿場の変更

 慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康は、江戸と京都を結ぶ重要な街道として東海道と中山道の宿駅の整備を始め、慶長7年(1602)中山道に、公用の継立場にあたる伝馬の制度を定めました。この年から400年を迎えた平成14年(2002)には、6つの宿場を持つ滋賀県をはじめ街道沿いの各地で400年記念のイベントが大々的に開催されました。
 江戸から63番目の鳥居本宿は、番場(現坂田郡米原町)と高宮の間に位置し、それぞれ約1里1町、1里半の距離があります。下矢倉村からは北国街道へ、南端の百々村からは朝鮮人街道(彦根道)が分岐し、まさに交通の要衝として発展してきました。
 鳥居本に宿場が置かれた時期については、いままでは小野の宿場が宿駅の機能を長年果たしていたと伝わっていましたが、このほど、彦根城博物館の調査によって、慶長8年(1603)に彦根に地割りをするために江戸からやってきた奉行嶋角左衛門が、小野宿で本陣を務める庄兵衛に、鳥居本に宿を移すように命じたという記述が確認されました。
 慶長7年(1602)7月幕府の命によって奈良屋・屋が中山道宿々の駄賃銭を定めた際には、小野村が伝馬継所とされていましたが、翌年には鳥居本に宿が移され、小野で代々本陣を務めていた寺村家が鳥居本宿の本陣を務めるようになったのです。(右上写真文書)
 鎌倉時代の『実暁記』では、守山・武佐・愛知川・番場・醒井・柏原の6宿が登場し、同じく鎌倉時代の『十六夜日記』には守山・野洲川・鏡・小野・醒井の地名が見られ、いずれも、中世の東山道の宿駅として存在し、中山道の宿駅制定後も宿場機能が続きましたが、高宮と鳥居本には、江戸時代になって新しく宿場が設置されました。
 一旦、小野に宿駅を命じた後に、幕府が鳥居本に宿を移すことを命じた背景には、彦根城下町の建設計画と密接なつながりがあったのです。直政の戦功で、佐和山城を拝領した井伊家では、佐和山城を改修することも視野に置きながらも、湖岸に近く、城下町を形成しやすい彦根山に築城することを決め、築城と同時に城下から中山道に出る脇街道のルートについてもこのとき決められたのです。
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中山道から彦根城下への道

 百々に立つ道標で分岐した彦根道(朝鮮人街道)は佐和山の切り通しと呼ばれる道を越えて彦根の城下にはいりました。現在では佐和山トンネルが貫通し、旧道は国道に遮断されていますが、山を越え古沢町に続いていました。大正時代に鳥居本から彦根の女学校に通学していた人の話では、常に履き物(当時のことでわら草履であったと思われる)を余分に携行していたと聞きます。また帰宅が遅くなったり、雪が降った時には、当家の下男が送り迎えをしたとのことです。トンネルが開通していちばん喜んだのは、鳥居本を顧客としていた彦根側の麓の商人であったという話も伝わります。
 それはともかく、この切り通しは戦国時代に佐和山城太鼓丸の防御施設であった切り通しを利用したとの説があり、その後井伊直孝の時代に整備され、元和年間(1615~24)に彦根城下町の整備と並行して鳥居本の施設が整う過程で道路が整備されたようです。
 中山道と城下を結ぶ脇街道は、鳥居本宿から切通峠を越え、外船道を通り、現在のキャッスルホテル近くの切通口御門に入り、一方高宮からは大堀町の分岐を示す道標から東沼波をとおり七曲がりを通過し高宮口御門(現在のあさひ銀行)に入ります。現在の中央町には、城下町の宿駅機能をもった伝馬町があり、脇街道は、国内の幹線道路と城下町を結ぶバイパスの機能を果たしていました。
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北国街道との分岐点

 天保年間の宿村大概帳によると鳥居本宿の長さは小野村境から下矢倉村まで13町(約1.4キロメートル)と記されています。戦後に米原内湖は干拓されましたが、旧北国街道は湖岸にそった道で、中山道は摺針峠を越えて番場宿にむかいました。米原町内には、北国街道と中山道の分岐点を示す道標がありますが、北国街道の起点は下矢倉村であり、当地杉本さん宅には北国街道の起点を示す道標があったことを裏付ける貴重な写真が残っています。現在新幹線が走る田園地帯は、かつては内湖でした。鳥居本は鈴鹿の山と内湖に挟まれた狭隘な地形であったのです。
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中山道の始まりと街道の整備

 中山道の原型とされる古代近江の東山道は、7世紀の中頃に駅制の整備にともない建設されたと考えられ、『延喜式』では、東から横川、鳥籠、清水、篠原、勢多に駅が置かれたことが確認されています。鎌倉幕府を開いた源頼朝は文治元年(1185)に駅制を制定し、京都鎌倉間を東海道としたことで、近江の東山道の利用も活発になりました。そして関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康は京都と江戸を結ぶ重要なルートとして東海道・中山道の整備に着手しました。当時中山道は「中仙道」としるされましたが、享保元年(1716)に新井白石の進言で「中山道」を正式表記としましたが、その後も「中仙道」は使用されています。
 慶長7年(1602)7月に幕府の命により奈良屋市右衛門と樽屋三四郎が、中山道の宿々に駄賃銭を定め、小野村を伝馬継所として通告しましたが、翌慶長8年に宿場は小野村から旧鳥に変更され、上矢倉村、西法寺村、百々村の3ヶ村が加わり鳥居本宿が構成され、本陣1軒、脇本陣2軒、問屋場1軒が定められ、問屋の前には高札場が設置されました。
 天保年間(1830~44)の宿場の概要を示す宿村大概帳によると、鳥居本宿の経済状況は、鳥居本村の115石余のほか、西法寺村1112石余、百々村 207石余、上矢倉村237石余であり、下矢倉村境より小野村境まで13町余の長さがありました。また、総人口は1448人、家数は293軒でそのうち、旅籠屋が大小合せて35軒。宿場の役人として、年寄5人、庄屋役5人、横目役4人、馬差2人、人足肝煎2人、人足指4人が配置されていました。通常は、問屋1人ならびに馬指・人足肝煎・人足指各1人の役人が出勤し業務に従事していました。
 宿駅制度を定めた幕府は、江戸日本橋を起点に、旅人や通行の距離の目安として、街道の両側に松や榎木などを1里ごと植えた一里塚を築きましたが、上図中央には鳥居本宿にも一里塚があったことを示しています。
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街道を行き交った人々

<皇女の下向道>
 江戸時代、東西を結ぶ幹線として重要な東海道や中山道は、参勤交代の行列など多くの人々が行き交いましたが、東海道と違って大きな川を越えることがない中山道は川留めに遭うことがなく計画的な旅ができるメリットがあり、とくに江戸への姫君の婚礼の下向は中山道が利用されました。とりわけ中山道史上例を見ない大行列は、孝明天皇の妹和宮親子内親王の徳川家茂への輿入れで、総勢3万人に及ぶ大規模なものでした。各宿場では、幕府の役人によって事前に綿密な見分が行われ、人足の準備や建物の修復や新築、道路の改修などその対応には莫大な費用を要しています。
<朝鮮通信使>
 百々の道標から彦根城下に入る道は彦根道と呼ばれますが、一方、朝鮮人街道とも呼ばれます。朝鮮通信使一行は、大坂から淀川をさかのぼって、淀に上陸し、京都から大津で昼食、草津から中山道に入り、守山で宿泊し、野洲町石畑から朝鮮人街道を利用しました。守山で宿泊後は近江八幡で休息し、彦根宗安寺で宿泊後、鳥居本からふたたび中山道、美濃路を経て江戸にむかいました。前日宗安寺を出発した一行は翌日に摺針峠の望湖堂で休憩しています。
<商いの道>
 江戸時代中期から全国を商圏に、近江商人の活躍がはじまります。日野や近江八幡、五個荘などから発祥した近江商人は、御代参街道や中山道を通り、江戸や関東・東北をめざして行商の旅にでかけました。街道沿いで生産された野洲晒や高宮上布は近江商人の重要な商品となり、そして、各地からまた中山道などの街道を通じて近江や上方に持ち帰る「諸国産物回し」は近江商人独特の商法でした。近江商人が全国で活躍した背景には、近江を通過していた東海道や中山道の存在が大きく影響していました。
<文人たちと鳥居本宿>
 鳥居本宿には歴史上著名な人物が逗留したことは、現存する絵や書で知ることができます。有名な芭蕉については別途記載しますが、江戸中期の画家で、円山派の祖である円山応挙(1733~17951)の鶴の画が有川家に残り、国学者本居宣長の書簡は岩根家に残ります。多くの人が鳥居本に逗留したようです。

芭蕉と森川許六の終の住処「五老井の跡」
街道を行き交った人々
原八幡神社境内の芭蕉昼寝塚(左)と祇川の句を記した白髪塚

 「行く春を近江に人と惜しみける」と詠んだ俳聖松尾芭蕉は、近江に縁が深く滋賀県内の各地に芭蕉に関わる話が残ります。原八幡神社の境内には、「ひるかほに 昼ねせうもの床のやま はせを」という芭蕉の句碑が立ち、昼寝塚と呼ばれています。この芭蕉の句は森川許六著の『韻塞』に収録されたものです。芭蕉が東武吟行の際に美濃路あたりから、彦根城下、明照寺の住職李由のあてた手紙の中に詠まれたもので「美濃路を歩いていると昼顔があちこちに咲いています。李由さんの近くには床の山がありますが、私も昼寝したいものです」という意味があります。
 李由や許六は芭蕉の弟子の中でもとりわけ優れた俳人で、ことに許六は芭蕉十哲の一人で、俳句のほかに画をよくしたことで知られ、芭蕉に絵を教えたといわれます。原東山霊園事務所の横には、許六が晩年を過ごした住居跡を示す「五老井跡」の井戸が残り、傍に「水筋を尋ねてみれば柳かな」という許六の句碑が建っています。この句碑は許六と同じ彦根藩士であった谷鉄臣の筆により明治30年頃に建てられたということです。
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歌枕に残る「不知哉川」

 旧中山道を鳥居本から西に進み、大堀町にはいると芹川の手前にこんもりとお椀を伏せたような大堀山(別名鞍掛山)があります。この山が壬申の乱の戦場となった「鳥籠山」ではないかといわれています。
『万葉集』では
淡海路の鳥籠の山なる不知哉川

       日のこのごろは恋ひつつもあらむ

狗上の 鳥籠の山なる不知哉川

       いさとを聞こせ 我が名を告ぐらすな
と詠まれ、歌枕の地として知られています。
 鳥籠の山とセットで詠まれるので、不知哉川は芹川であるとする説が有力ですが、「鳥籠山」は正法寺山や東山であるという説や、不知哉川は、原町を流れる小川であるともいわれます。鳥籠山の比定地についての見解はさまざまですが、中山道は古代の東山道を踏襲して決められたという経緯から、古代の鳥籠駅の所在論争にも大きく影響します。
 『延喜式』では鳥籠駅に15匹の駅馬を備えたと記され、大堀山と芹川のある周辺が鳥籠駅であった可能性が高いとされます。しかしながら、具体的な調査が行われていないので確証はなく、大堀町から地蔵町、正法寺町、原町あたり一帯が鳥籠駅であろうという可能性が残ります。
 原町を流れる「不知哉川」の源のある東山は、古くから「山神さん」として信仰され、山頂付近の一角には石を四角に敷き詰められた上に小さな石塔がおかれ、3月と12月の祭礼には原の人々が参拝に訪れます。彦根インターチェンジ近くの原八幡神社の社内には、聖徳太子建立の伝承を持つ永光山宝瑞寺がありましたが、明治の神仏分離で廃寺となりました。その後、中興開山の墓石などわずかにその姿をとどめていましたが、近年の神社境内の整備に際して供養塔が建立されました。神社境内の整備が進むと同時に、平成9年には、氏子たちによって日本一の大太鼓が奉納されました。
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小町伝承が残る中世の宿場「小野宿」

 鎌倉時代に阿仏尼(藤原定家の子)が書いた『十六夜日記』や『太平記』『実暁記』では宿場としての小野の地名を見ることができます。中山道の原型は古代最大の幹線道路「東山道」であったと推測されており、小野は早い時代から宿場の機能を果たしていました。原から小野の集落に入る街道の傍にたたずむ小さな祠の中には小町地蔵とよばれる1体の地蔵さまが安置されています、この祠は小町塚と称され小野小町伝承を伝えています。京都から北陸・関東へ往復していた当時の公人たちが小野宿にたびたび宿泊していたことから生まれた伝承であろうと考えられます。小野小町に関する伝承地は全国に25ヶ所以上存在し、絶世の美女であったといわれるだけにその伝承も多いのです。
 小野町に伝わる話では、小野好実が奥州最上・出羽の郡司の任期を終えて京に帰る途中、小野に滞在し、ここの住人から1人の娘をもらい受け、京につれて帰り、養育して養女にしたのが、後の小町であったというものです。出羽守小野好実は、滋賀郡志賀町に祀られる小野 篁 の二男ですが、好実の娘が小町であるという真偽のほどは不確かであると考えられています。
 小野小町地蔵付近には、明治の中頃まで茶屋があったと伝わりますが、現在は、名神高速道路と新幹線そして旧中山道がもっとも接近する所です。文明の喧噪の中にひっそりたたずむ美女伝承は、旧道ならではの趣といえましょう。
 小野宿がいつ頃から宿場の機能を果たしていたのかは不明ですが、大堀あるいは原周辺の鳥籠駅と山東町の横川駅の間に位置した中世以来の駅(宿場)であったことは確かです。このような小野宿も、関ヶ原の戦い後には、攻撃を受けた佐和山城の影響で、集落ごと焼き払われてしまいました。小野で本陣を務めていた寺村家はその後旧鳥に移り、引き続き本陣を務めました。
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戦国時代と百々氏

「彦根道」との分岐点を示す道標の立つ百々の集落は、室町時代後期から戦国期にかけて、京極氏に仕えた百々氏が本拠としたところです。
 百々氏の祖である百々盛通は伊予の国(現在の愛媛県)出身の豪族で、河野三郎越智通春が嘉吉年間(1441~44)に当地に居住したことに始まるといわれます。盛通の母は、近江守護大名の京極氏一族の京極高経の娘でした。高経が京極氏から戦功として小野庄と百々村を賜り、これが縁で、盛道が百々村に居住するようになり、応仁の乱では、摺針峠に置かれた関所を守りました。
 戦国時代、古西法寺村や百々村は佐和山の城下町として発展し、浅井氏に属した百々隠岐守は佐和山城にいたことが知られています。元亀元年(1570)6月姉川の合戦で勝利した織田信長は、佐和山城が落城した翌年2月までの間、丹殿前にあったと思われる百々屋敷に丹羽長秀を配しています。その後、信長に仕えた百々越前守は摺針峠の監督を務め、さらに羽柴秀吉の臣として天正10年(1582)の山崎の合戦に従軍するなど、戦国時代以降、時の名将に仕えてきました。江戸時代末期には7軒の百々姓の人が鳥居本に居住していましたが、その一人百々彦右衛門元信は、長野義言(主膳)の弟子で、自ら「本照亭主人」と名乗っています。祖盛通から数えて12代目の子孫は慶応元年には横目という村の役職につくなど百々氏の系譜は引き継がれてきました。天台宗の百々山本照寺が盛通の菩提寺と伝わりますが、信長の鳥居本攻撃によって本照寺は廃絶しました。その後梅本坊という人が本照寺持仏堂の永続をはかり本尊を奥の別院に隠し、境内に八幡宮を建て、表向き八幡社としながら本照寺持仏堂として守ってきました。大正8年の調査で奥の院の阿弥陀如来が確認された後に、山田神社に合祀し、従来の神社を阿弥陀堂と改め、地元の人に守られています。
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佐和山城の歴史と変遷

佐和山城の築城
 石田三成の居城として知られる佐和山城ですが、その築城は鎌倉時代にさかのぼります。古くはサホ(佐保・棹)山と呼ばれ、鎌倉時代はじめに佐々木定綱の六男、六朗時綱が佐和山付近の山麓に館を構えたのが始まりとされます。15世紀中頃には六角氏の支配のもと小川左近太夫を城主として犬上郡、坂田郡の境目の城となりました。やがて佐々木氏は京極と六角に分かれ、京極の臣下の中から勢力を伸ばしてきた浅井氏を交えた3者の間での争いがはじまります。そして、勢力の境に位置する佐和山が攻撃の目標となり、次第に要害の地として城塞が築かれ、強固なものになってきたと考えられます。関ヶ原の合戦後に井伊直政が入城し、慶長8年(1603)彦根城築城と同時に廃城となりましたが、おおよそ400年の間、近江の北と南の境目に位置する重要な城塞でした。
 この城の重要性に着目したのが織田信長です。京極、六角、浅井の勢力争いに加わり、そして終止符を打った信長は、安土城の完成までの間、まるで自分の城のように佐和山城を利用していたことが『信長公記』などの記録に残ります。当時、佐和山山麓には入江内湖・松原内湖が広がり、東山道が走る立地は、天正7年(1579)に安土城が完成されるまでの間、信長の居城的性格を持つ重要な城郭とされていました。
元亀元年の佐和山合戦
 信長が美濃の斉藤氏を討ち、稲葉城を岐阜城に改め、足利義昭を擁して上洛の準備を始め、妹のお市を浅井長政の妻とした頃、浅井長政の臣下の磯野員昌が永禄11年(1568)に入城し、観音寺城を攻略しました。その後長政が反旗を翻し、姉川の合戦が起こります。9時間におよぶ激しい戦いの末、破れた長政は、小谷城と佐和山城に分かれ再起を図ります。一方信長は小谷城に秀吉を配し、佐和山城に対しては、東の百々屋敷に丹羽長秀を、北の山(磯山または物生山)に市橋長利、南の山(平田山または里根山)に水野信元を布陣させて長政を封じる方策を講じました。これが「元亀元年の佐和山合戦」です。佐和山に籠城した磯野員昌は、坂田郡内の土豪今井氏、嶋氏、河口氏らとともに家中の結束を固め約8ヶ月にわたって奮戦したのですが、長政への援軍が聞き入られず、食糧・武器もなくなり、なすすべを失った員昌はついに信長に降伏し佐和山城を明け渡しました。後に佐和山城が「難攻不落」の城といわれる所以です。
佐和山城の歴史
 佐和山合戦後の佐和山城は、丹羽長秀、堀秀政、堀尾吉晴と引き継がれていきます。
 近江を制定した信長は比叡山を焼き討ち、北に横山城、東に佐和山城、南に坂本城を配した近江の街道を見据えながら、湖上の交通も視野においていました。そして佐和山城主、長秀に命じて長さ30間の大船を作らせ琵琶湖の水路も確保しましたが、非業の最期を遂げました。
 その後秀吉が天下を平定すると、佐和山城には秀吉臣下の堀尾吉晴が入り、軍事拠点を守りながら、秀吉に従って各地を転戦しました。
 関白になった秀吉のもとで五奉行に名を連ねていた石田三成が佐和山の城主となったのは、文禄4年(1595)、堀尾吉晴が佐和山から浜松に移って以来、5年が経過し、城内は相当荒廃していたので、三成は直ちに城郭を大改修しています。残存する佐和山城の遺構は多くはありませんが、ほとんどが三成が大改修した当時のものです。城内は三成の合理性を示すような質素な造作でしたが、本丸を中心に、周囲に西の丸・二の丸・三の丸・太鼓丸・法華丸などの楼閣がそびえる城郭に整備しました。多賀大社に残る絵図には、佐和山城の当時の偉容を見ることができます。三成は城郭の整備とともに、領内の統治にも細やかな配慮を示したと伝わりますが、詳細な記録は多くはありません。
佐和山城の廃城
 関ヶ原の合戦で敗北した石田三成は山間に逃亡し、三成の父正継と兄正澄が留守を守る佐和山城は、小早川秀秋・井伊直政・田中吉政らの攻撃を受けます。執拗な攻撃に石田勢はよく戦ったのですが、一族は自刃し、塩硝蔵に火が放たれると城郭はすべて灰となりました。逃げまどった婦女の多くが東の崖から身を投じたことから、後にこの崖は「女郎ヶ谷」と呼ばれるようになりました。
 落城した城は家康の家臣によって管理されていましたが、慶長6年(1601)に井伊直政が城主として赴任、その後新しく彦根城の築城が始まると佐和山城の石や用材が建設のために運びだされましたので、佐和山城の多くの遺構は姿を消しました。ただ鳥居本側にあった大手門は彦根市内の夢京橋キャッスルロード中央に位置する宗安寺の表門に移築されたと伝わります。
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佐和山城の遺構

佐和山城の遺構
佐和山山頂から鳥居本町、遠くに伊吹山が見える

大手門跡から近江鉄道の線路をくぐり、小野川に沿ってさらに進んだ、山沿いの三の丸付近には、殿町谷など城下町を示す小字名が残り、内町老人会によって登山道の標識がたてられています。ここからまっすぐに登ると通称「龍潭寺越え」とよばれる交差点となり、さらに登り尾根の切り通しに出て、西の丸を経て坂を登りつめると本丸に出ます。本丸までは、通常佐和山トンネル彦根側からのハイキングコースをとりますが、鳥居本側からも容易に山頂に出ることができます。
 かつて五重塔がそびえていたといわれる頂上からは、遠くに安土山、小谷山が見渡せ、伊吹山も手にとるような距離に望むことができます。本丸跡から少し下ると腰郭跡に2段の石垣が残り、城郭跡が感じられる遺構に出会います。関ヶ原の合戦で壊滅的な破壊を受けたといわれる佐和山城ですが、石垣をはじめ千貫井の存在など随所に遺構を見ることができ、この城郭が当時、重要な役割を持っていたことがよくわかります。
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鳥居本小学校

 明治19年11月1日小学校令が実施され、今まで各集落ごとにあった学校が廃止され鳥居本尋常科小学校、鳥居本簡易小学校として開校しました。明治24 年4月1日小学校令が改正され、原、荘厳寺、武奈、男鬼の学校が廃止され、鳥居本全村を通学区域とする鳥居本尋常小学校となりました。明治31年4月には高等科を設置し鳥居本尋常高等小学校と改称。昭和16年4月1日国民学校令により鳥居本国民学校と改称。昭和22年の新教育制度6・3・3制の学制実施により昭和23年4月1日から鳥居本小学校と改称され現在に至っています。
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郡域を超えて彦根市の合併

 昭和6年、近江鉄道鳥居本駅の誕生は村民の大きな喜びでした。そして新しい交通手段の登場は、当時の鳥居本の産業振興に大きな成果がありました。しかし、鉄道から道路輸送中心の時代が到来すると、鳥居本村は大きな岐路を迎えることとなります。国道建設をも視野において彦根市との合併問題が発生し、単独中学校の建設の問題を抱えて、合併の是非を問う住民投票の結果、昭和27年(1952)に彦根市に合併しました。彦根市の面積の25%を占める鳥居本は、豊かな自然に恵まれた地域ですが、合併後50年を迎えた今、新たな将来展望の計画の必要性に迫られています。
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鳥居本村の成立

 明治維新後の廃藩置県によって鳥居本を支配していた彦根藩は消滅し、新たに彦根縣が設置され彦根知事に井伊直憲が任命されます。そして明治7年(1874)に百々、西法寺、上矢倉の3ヶ村が旧鳥居本と合併して鳥居本村が誕生し、明治22年(1889)には下矢倉、甲田、古西法寺、宮田、中山、荘厳寺、仏生寺、武奈、男鬼、小野、原の各村が合併して坂田郡鳥居本村になり、昭和27年に彦根市に合併するまで60年間続きました。
 明治以降、新しい交通機関の発達は鳥居本に大きな影響を及ぼし、交通の重要地点が米原に移ると、鳥居本のかつての繁栄は見る影もなく寂れましたが、地域内の結束は堅く、活発な青年団活動や協同経営による産業振興策が展開されました。